「子供の頃、自分で作った凧が全然飛ばなかったのは何故なんでしょう?」長年の疑問を、五島ばらもん凧販売店「五島民芸」の三代目、野原一洋さんに聞いてみました。
すると即座に返ってきたのが「それは『糸のつけ方』がよくないからじゃないのかな。」という明確かつ意外な答え。凧の形?重さ?それとも組み立て方?等々、凧そのものに問題があるのかと思いきや、飛ばすための最重要ポイントは「糸のつけ方」だったのです。
ばらもん凧の場合、凧の真ん中を通る軸の、上から約3分の1の所(鬼の鼻の頭くらい)に中心となる糸をつけ、そこを基点として凧の全長の2倍の地点で糸を一つに集めればまず間違いないとのこと。後はバランスを考えて荒縄の尻尾を付け、左右には房を付けます。
糸のつけ方を説明する野原一洋さん そして、ばらもん凧を飛ばす時にもう一つ大事なのが「音」。頭の部分に凧と同じ長さの弓を付けると、そこに風が当たって唸るのです。その音は「ブーン、ブーン」と独特の音を発し、鬼岳の草原に響き渡ります。
野原さんの祖父で「五島民芸」の創業者でもある野原権太郎さんが生まれ育ったのは五島市奥浦町、中でも山深い奥ノ木場地区。そこでは旧暦の3月3日に、皆で重箱を持って田んぼに出かけ、ご馳走を食べながら凧揚げをするのが習わしだったそうです。その日は新暦で言えば4月の初め頃。「その頃に吹く安定した北風が、凧を揚げるのにちょうどいい風だったと、じいちゃんに聞いたことがある」と孫の一洋さん。
昭和2年、五男四女の末っ子として生まれた権太郎さんは、わずか2歳で父親と死別。戦争中、年上の兄たちは兵隊にとられ、姉たちは嫁ぎ、家に残ったのは権太郎少年ただ一人。学校までの険しい山道を毎日通いながら、母を助けて牛を飼い、田畑を耕す日々。
20歳で結婚してからは、生活苦のために何度も出稼ぎに行き、奥ノ木場に戻って来てからは山奥で炭を焼き、町へ売りに行く日々。このままでは先が見えないと、昭和30年に福江の町に引っ越すも、土木作業や行商、船の仲士にブロイラー飼育、うどん食堂に鮮魚店と職を変えます。
しかし鮮魚店時代、空港勤めの親戚に「何か良か土産物はなかっか」と相談されて、以前から趣味で作っていたばらもん凧を土産品として販売することになり、転機が訪れます。空港に置き始めたばらもん凧が、デパート関係者の目に留まり、東京のデパートの物産展に行くことになったのは、権太郎さん46歳の秋のこと。それからは、あれよあれよという間に各地のデパートから「ひっぱりだこ」となり、平成5年には県の伝統的工芸品に指定、権太郎さんは伝統工芸士に認定されました。
平成5年オープン当時 早くに父親を亡くしたが故に、子どもの頃から自分で凧を作っていた経験や、苦難続きの半生の中で培われた不屈の精神で野原権太郎さんは人生を切り拓いていったのです。
さぁ私たちも鬼岳で凧を飛ばしてみませんか?ポイントは「正しい糸のつけ方」です。そうすれば、ばらもん凧も人生も、高く高く舞い上がることでしょう!
取材先:五島民芸
TEL:0959-72-8591
WEBサイト:https://www.gotomingei.com/
【取材・執筆・掲載】fully編集部
【掲載先】fullyGOTO2022夏号